泉涌寺は、建保六年(1218)月輪大師によって律院として再発足する以前は、仙遊寺と呼ばれた。仙遊寺の始まりは斉衝二年(855)左大臣藤原緒嗣が建てた法輪寺である、という。当時は平安京内に寺院を建立するのは原則として禁じられ、官寺は羅城門の東西に建てられた東西二寺のほかにはなかった。泉涌寺は東山の山麓で九条大路を東に賀茂河を渡って東山に行き当たったところにある。そこは北は清水寺・愛宕寺に近く、平安京遷都以来、都民の墓所にあてられたところである。緒嗣が法輪寺を建てた動機、仙遊寺と改称した時期・理由などは判明していないが、初め墓所またはそれを護る寺院として発足し、平安時代後期の院政当時、東山七条に七条殿・法往寺殿・蓮華王院・最勝光院などが続いて建立されたこと、仙遊の寺号が示すように、霊地としての実を具えるようになったのであろう。
 月輪大師が当寺の住持となる以前は、大和守と所衆の官職を持つ豊前國武士中原信房が当寺に縁があった。信房のことはよく解らないが、宇都宮氏の一族といわれている。月輪大師は信房の求めによって建保五年に弟子を伴ってはるばる豊前國に下向して、信房夫妻のために逆修(げきしゅ)、すなわち生前法要を勧め、新房の出家受戒の戒師となった。信房がその翌年、当寺を月輪大師に寄進したのは、その布施としてであった。
 月輪大師は、肥後國に生まれ早く太宰府観世音寺戒壇院で登壇受戒して僧となり京都・奈良で佛教の教学を学んだが、それで満足できず入宋して律宗をきわめたのは、十二世紀末十三世紀始の日本の仏教が、末法到来にかこつけて、戒定慧の三学を実践しようとせず、破戒・無戒のあさましい状態になっていたのにあきたらなかったからである。月輪大師は滞宋満十二年で建暦元年(1211)四月帰朝し建仁寺に入ったが、建仁寺は律院というよりは禅院に近く、月輪大師の律宗興隆の理想実現には不適当なものがあったらしい。月輪大師は翌年建仁寺を退いて稲荷にあった崇福寺に移った。月輪大師が中原信房の帰依を受けたのは崇福寺に移ってからである。

 月輪大師はまず仙遊寺の寺号を改め、戒律実践道場にふさわしく、その規範を作り替えることにした。律院がそれに課せられた使命を達成するには、律院に起居する僧侶すなわち清衆の行動を厳重に規制する必要がある。月輪大師は仙遊寺の施人を受けると、八月に清衆規式を制定して、修行の目的によって住僧の資格を厳重に限定し、外出を制限するなど、律の規定の主旨に副って住僧の行動を規制することを明らかにした。当時、南都では笠置寺貞慶などを中心にして、いわゆる南京律が再興しかけており、宋で禅律二宋が盛んであったのを受けて、禅宗が建仁寺・鎌倉寿福寺で行われ、両寺開山の栄西は、参禅修行は戒律を守ることが先きである、と主張していたが、両寺の律院としての設備は十分でなく、月輪大師もそのために早く退寺したほどである。律宗再興の第一歩は月輪大師の当寺清衆規式の制定によって始まった。
 月輪大師の律院建立理想でいま一つ注目されるのは、栄西が建てた建仁寺と同じく、寺内に真言院を設け、潅頂その他の秘法を行う場としたことである。月輪大師も栄西と同じく台密に通暁し、宋でも秘法を修して霊験を示して人を驚かせたことがしばしばであった。また建仁寺の止観院にならって浄土十六観堂を寺内に建て、本尊阿弥陀如来を安置し、観無量寿経によって阿弥陀浄土を観想することにした。月輪大師によると、当時宋の寺院には多く十六観堂が設けられていた、とのことであるが、月輪大師はこの十六観堂で修行するものは三年寺門を出ないで坐禅を不退に行うことを求め、それこそ一向専念の捷径、決定往生の直道である、と称した。このことばは、発したものが戒律実践を先きとする生法仏教樹立の月輪大師と、末代では戒律実践は不可能として一心称名、または本願信受を主張した源空・親鸞の相違はあるが、両者全く同一の発言をしているのが注目される。月輪大師の起こした興津運動の目ざしたものが何であったかを示すものとして注目される。

 月輪大師は翌承久元年(1219)十月、自筆で泉涌寺勧縁疏を作り、ひろく建立の資を求めたが、勧縁疏・色目を見られた後鳥羽上皇が律院建立の主旨が殊勝なことと、俊じょうの筆跡・用紙が美麗なことをほめて多額の寄付をなされた。この疏は原本が今日に伝わっており、国宝に指定されている。月輪大師は翌二年二月十日に泉(涌寺殿堂房寮色目を定め、三門・仏殿・講堂・宝蔵・僧堂・祖師堂・教蔵・十六観院・真言院の堂宇、方丈以下の房舎の設立とその機能を明らかにした。注目されるのは、寺務を統括・処理する長老・知事・行者・知客・維那などの職掌を明確にし、それらが執務する場所として、方丈・庫院堂などの建物を設けることにしたことである。寺院の建築で方丈以下をこれほど職掌に即応して設けることを規定したことは泉涌寺はその意味でも注目される。

 月輪大師の色目で次に注目されることは、東司すなわち便所の清掃を厳重に規定したことである。和合の場である寺院の協同生活で何が必要であるか明示したものとして重要である。
 月輪大師が理想とした泉涌寺建立計画は、このように雄大なものであったが、それだけにその完成には長年月を要し、二層講堂の建築が着工したのは嘉禄元年(1225)十月、竣功は翌年三月であった。しかしそのころから月輪大師の健康が衰え、嘉禄三年閏三月八日に入滅した。月輪大師は入滅より一月前の三月十三日に置文を作って、長老以下の職掌を改めて定め、それになるべきものをあげ、特に堂舎・境内の修理維持に当たるべき直職を定めたのが注目される。月輪大師が伽藍の維持に深く配慮したことを示す事実である。
 月輪大師はまた三月二十日に弟子のの心海に自筆で附法状を書き与えたが、その原本も遺存し国宝に指定されている。
月輪大師の葬儀は記録を欠くので詳細は不明であるが、宋の律院の式に則って行われたことに相違あるまい。墓は寺内に設けられ、塔は石造卵塔で表面に不可棄法師と刻されている。大きく様式・制作ともにすぐれており、保存もよく鎌倉時代前期の卵塔を代表する優品である。重文に指定されている。
 月輪大師入滅が当寺教団に与えた衝撃は大きかった。門弟の中に当寺を離れようとするものがあり、それをめぐって紛争が生じたこともあった。また月輪大師が将来した北峯宗印著述書籍の維持が懸念される状態もあった。このような自体が大事にならずに克服し得たのは、遺弟が和合を主とする寺院のあり方を自覚したのと、月輪大師が後見を以来した九条道家の外護が大きく影響している。
 月輪大師の没後を受けて当寺を盛んにしたのは弟子の聞陽湛海である。湛海は嘉禎年間(1235-8)に入宋し、寛元二年(1244)秦山白蓮寺に留まることになったが、同寺に安置されていた仏牙舎利を拝して厚い信を起こし日本に迎えることを申し入れたが謝絶され、この年一旦帰朝した。数年のちに湛海は再度入宋し百蓮寺に入ったが、同寺が荒廃していたので日本から材木をとりよせて復興に当たり見事に完成させた。その功によって湛海は仏牙舎利を与えられ建長七年(1255)日本に帰り、この舎利を当寺い安置した。それからこの当寺の仏舎利は天下無双霊宝として篤く敬われ、当寺の信仰の中心となった。宮中に出開帳して上皇・女院が礼拝されたこともあり、公卿らが当寺に参詣して仏舎利を礼拝したことも数多く記録されている。湛海はまた楊貴妃観音・月蓋尊者・韋駄天・羅漢の木像を宋から将来した。楊貴妃観音はもと法堂の二重層上に安置され、のちに山門に移された、と伝えられている。室町時代の日記薩戒記、応永三二年(1425)七月一二日によると、当寺法堂二層上に楊流観音が安置され、天竺すなわち海外から渡来の像として尊信を集めていたことが知られる。

 当寺が信仰の中心となったのは、戒律の実践を厳重にし寺院の内外を清浄にし正法仏教を興隆したことが基本であり、仏牙舎利・楊貴妃観音などの霊宝を安置したことがそれに続くが、仁冶三年(1242)正月九日四条天皇が崩御されると、天皇は月輪大師の生まれ変わりと伝説されたこともあって、大喪が当寺で行われたことが機縁となり、南北朝時代末期、後円融天皇の大喪が明徳四年(1393)四月二十七日に当寺で行われてから孝明天皇まで、歴代の天皇・皇后・女院の御葬儀は、おおむね当寺で行われ陵墓も当寺境内に設置されたことが、当寺興隆の力となった。山内の雲龍院がたびたび禁裏の黒戸御所を拝領して建立したのを始めとして、当寺も同様に御所の建築を数多く拝領している。明治十五年の火災によって多くの殿舎を失ったが、いち早く再興し得たのも、全く皇室外護のおかげであった。泉涌寺は、歴代天皇のほかには位牌をたてないしきたりを保っており、明治維新の神仏分離以後、皇室の御内儀で礼拝された仏像その他をお預かりして供養しているのも、このような機縁に基づいてる。
 御寺として当寺が仏教寺院のなかで特殊な地位を占めているのは、そのためである。